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61 days ago
【かいわいの名水】天満の名水20年ぶり復活…天神祭でお目見えへ
大阪天満宮(大阪市北区)の境内でかつて湧き、名水のほまれ高かった井戸水が、今夏の天神祭(7月25日)で約20年ぶりに復活する。戦後の大量取水でかれてしまったが、天満宮が地盤工学の専門家の協力も得てくみ上げに成功。「天満天神の水」と名付けられ、地ビールや地酒の構想も持ち上がっている(藤本将揮)。大阪天満宮文化研究所によると、周辺は江戸時代、造り酒屋が立ち並び、良質な地下水を使った酒造りが盛んだった。文献では、「千日前福井」「道頓堀秋田屋」「聚楽町の愛宕」とともに「大坂四清水」と称されていたとされる。宮崎・延岡藩の役人が天満宮にあて、「藩主が参勤交代で大坂に立ち寄るので水をいただきたい」と頼んだ手紙も残っている(YOMIURI ONLINE 2014.06.28 =写真も)。
記事では「文献では~大坂四清水と称されていた」とだけ書かれていますが、さて、どの文献(出典)をさすのでしょうか。ということで、調べてみました。見つかったのは次の4文献。古い順にあげてみますと、岡田溪志『摂陽群談』(1698~1701)、秋里籬島『摂津名所図会』(1796~1798)、暁鐘成『摂津名所図会大成』(未完・1860頃)、『角川日本地名大辞典』(大阪府・1983)。『摂陽群談』以外の該当箇所を以下に。
「聚楽館古蹟」: 南谷町の東聚楽町をいふ。秀次公滅びたまひて後、慶長のはじめ京師聚楽館をここにうつされしなり。また側に愛宕井(あたごのゐ)といふあり。京師愛宕山この地より見ゆるにより名によぷとなり(『摂津名所図会』巻之四)。
「愛宕清水」:内久宝寺町通の南の條、谷町の西二あり。今人家の裏にありて長屋の用水とす。清泉にして甘味なり。則ち所の字をあたごと号す。其の始め此の清水の側に就て愛宕権現の業祠あって(略)因て清水の名に残れり(『摂津名所図会大成』巻之二)。
「秋田屋清水」:中の芝居の東の方、浜側の河岸にあり。浪花中無双の清水にして、いにしえより南辺の一奇とす。其の始め秋田屋といへる芝居茶屋の有し故、かくハ号けり(『摂津名所図会大成』巻之八)。
「粉川町(近世~近代)」:江戸期~現在の町名。江戸期は大坂三郷北組のうち。山城国伏見の町人が移住してきた地で、江戸初期には北聚楽町2丁目と呼ばれていた。「宝暦町鑑」によると「久ほうじばし東詰一筋南の丁、朝日神明より東」の町で、元禄13年の大坂三郷水帳寄せ帳では家数21軒、役数25、うち無役数1(年寄)、年寄は池田屋七郎兵衛。当町善安筋には聚楽第の移転にともない移されたと伝える愛宕清水があり、付近一帯は愛宕と俗称された。この清水は千日前の堀井の水、道頓堀の秋田屋の水、天満天神社内の天神の水とともに大坂四か所の清水の1つに数えられ、茶人の賞用する水であったという。愛宕清水の名称は、愛宕権現の祠があったことによるという(摂津名所図会大成/浪速叢書7)。明治2年大阪東大組、同12年東区、同22年からは大阪市東区の町名。明治5年聚楽町と松山町の一部を編入。世帯数・人口は、大正9年282・1、498、昭和30年48・289、同50年44・205。
鐘成の「愛宕清水」は『摂陽群談』を元ネタとしています。『角川日本地名大辞典』には出典として『摂津名所図会大成』があげられていますが、記述は『摂津名所図会』からも引いているようです。「大坂四清水」に言及があるのは、『角川日本地名大辞典』のみ。『摂津名所図会大成』には20数か所の「清水」「井」が掲載されていますが、肝心の「天満天神の水」、それと「千日前福井」はよう見つけませんでした。鐘成は「秋田屋清水」を大坂一(浪花無双)として賞賛しています。

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