HACHIKEN_YA

@hachikenya

大阪ニ万年の歴史を「縦書きのデジタル絵巻」にしてウェブサイトにアーカイブする活動を行っています。会(NPO)の名称は「大水都史を編み後世に伝える会」。

【かいわいの証言】長堀茂左衛門町丁人中家守中「大地震両川口津浪記」(1855年7月)=写真
地震の翌年の安政二年(一八五五年)七月、「大地震両川口津波記石碑」が幸町五丁目、木津川の渡し場に建立されました。地震の模様を伝えるとともに惨事を二度と繰り返さないようにとの願いが込められています(大正四年、市電開通の際に大正橋が架けられた際、碑は橋の東詰に移されました)。石碑には長堀茂左衛門町の人々によって建立されたと記されています。長堀茂左衛門町は安綿橋から新橋までの長堀川の南岸あたり(鰻谷一丁目付近)。このあたりは住友の銅精錬所があったところで、周辺は住友家の一族の邸宅で占められていました。住友家の古文書には石碑のことは触れられていませんが津波が襲ったときの記録が残されています。「住友の所有する伊勢丸という船が日吉橋の近くに碇泊していた。そこへ津波が押し寄せてきて道頓堀川を大黒橋まで押し上げられた。三、四艘の上荷船・茶船を下敷きにして、その上に横倒しになった。伊勢丸は破損することもなく、船乗りに怪我もなかったので、祝い金と酒を船中一同に与えた」というのがそれです。前述の大黒橋に横倒しになった大船というのは、この住友の伊勢丸のことだと思われます(平野)。

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730 days ago

【かいわいの証言】長堀茂左衛門町丁人中家守中「大地震両川口津浪記」(1855年7月)=写真
地震の翌年の安政二年(一八五五年)七月、「大地震両川口津波記石碑」が幸町五丁目、木津川の渡し場に建立されました。地震の模様を伝えるとともに惨事を二度と繰り返さないようにとの願いが込められています(大正四年、市電開通の際に大正橋が架けられた際、碑は橋の東詰に移されました)。石碑には長堀茂左衛門町の人々によって建立されたと記されています。長堀茂左衛門町は安綿橋から新橋までの長堀川の南岸あたり(鰻谷一丁目付近)。このあたりは住友の銅精錬所があったところで、周辺は住友家の一族の邸宅で占められていました。住友家の古文書には石碑のことは触れられていませんが津波が襲ったときの記録が残されています。「住友の所有する伊勢丸という船が日吉橋の近くに碇泊していた。そこへ津波が押し寄せてきて道頓堀川を大黒橋まで押し上げられた。三、四艘の上荷船・茶船を下敷きにして、その上に横倒しになった。伊勢丸は破損することもなく、船乗りに怪我もなかったので、祝い金と酒を船中一同に与えた」というのがそれです。前述の大黒橋に横倒しになった大船というのは、この住友の伊勢丸のことだと思われます(平野)。

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