HACHIKEN_YA

@hachikenya

大阪ニ万年の歴史を「縦書きのデジタル絵巻」にしてウェブサイトにアーカイブする活動を行っています。会(NPO)の名称は「大水都史を編み後世に伝える会」。

【かいわいの文芸】谷崎潤一郎「細雪」(1948):もうその時分、街でタキシーを拾うのはむずかしくなって来ていたので、橋寺は電話で何処かのガレージからパッカードを呼んだ。そして中之嶋の朝日ビルの角まで来ると、如何です、阪急までお送りしても宜しいですが、お差支えなかったらちょっとお降りになりませんか、と云うのであった。ちょうど時分時なので、アラスカへ誘う気なのだと察した貞之助は、今日も亦饗応にあずかることは重ね重ねで心苦しいけれども、この機会に娘と親しんで見たくもあり、こう云う風にしてだんだん交情が深まるのは願ってもないことでもあるので、ままよと、招きに応じてしまった。で、それから又一時間ばかり、洋食のテーブルを囲みながら漫談を交した訳であったが、今度は娘が加わったので、映画の話、歌舞伎劇の話、亜米利加や日本の俳優の話、女学校の話等々、一層たわいのないことをしゃべっただけであった。http://amzn.to/wk8yap

時代は昭和11~16年。大阪・船場の豪商・蒔岡(まきおか)家の四人姉妹、鶴子・幸子・雪子・妙子の生活と運命の物語。舞台は、婿養子・貞之助を迎えて芦屋に分家した次女幸子一家が中心。貞之助夫妻は、無口で縁遠い雪子をひきとってたびたび見合いをさせるが、みな不調に終わって年を経ていく。その間に、ちょっと不良っぽい妙子がひき起こす奔放な恋愛事件がある。世相は日中戦争など険しいなか、貞之助一家は、音楽会・舞の会・芝居・料理屋・春の花見・夏の蛍狩り・秋の月見と明るく華やかな生活を享楽する。昭和16年、35歳になってもなお若く美しい雪子が、華族出身の御牧(みまき)という男との縁談がまとまり、上京するところで物語は終わる(東京紅団『谷崎潤一郎「細雪」を歩く 大阪編』より)。写真は渡辺橋と大阪朝日ビル(昭和6年竣工)。この最上階に「アラスカ」があった(今もあります)。ビルは数年内に取り壊し予定。

どこが「かいわい」やねん!のツッコミが来そうです。先に言い訳をしておくと、歴史上(中世)の「渡辺橋」は、現在の場所ではなく、天神橋と天橋橋の間あたりに架かっていたという説が有力(仁木宏)です。十四世紀はじめの『夫木抄』には権僧正公朝が詠んだ次の歌が採られています。渡辺や橋の上方を始にて多かる岸のつま社かな。橋の上方とは楼の岸あたり(=かいわい)を指し、浄土堂があったとされています。十六世紀になると、このあたり一帯は「上手堂(じょうずどう)」という地名で呼ばれるようになります。

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1037 days ago

【かいわいの文芸】谷崎潤一郎「細雪」(1948):もうその時分、街でタキシーを拾うのはむずかしくなって来ていたので、橋寺は電話で何処かのガレージからパッカードを呼んだ。そして中之嶋の朝日ビルの角まで来ると、如何です、阪急までお送りしても宜しいですが、お差支えなかったらちょっとお降りになりませんか、と云うのであった。ちょうど時分時なので、アラスカへ誘う気なのだと察した貞之助は、今日も亦饗応にあずかることは重ね重ねで心苦しいけれども、この機会に娘と親しんで見たくもあり、こう云う風にしてだんだん交情が深まるのは願ってもないことでもあるので、ままよと、招きに応じてしまった。で、それから又一時間ばかり、洋食のテーブルを囲みながら漫談を交した訳であったが、今度は娘が加わったので、映画の話、歌舞伎劇の話、亜米利加や日本の俳優の話、女学校の話等々、一層たわいのないことをしゃべっただけであった。http://amzn.to/wk8yap

時代は昭和11~16年。大阪・船場の豪商・蒔岡(まきおか)家の四人姉妹、鶴子・幸子・雪子・妙子の生活と運命の物語。舞台は、婿養子・貞之助を迎えて芦屋に分家した次女幸子一家が中心。貞之助夫妻は、無口で縁遠い雪子をひきとってたびたび見合いをさせるが、みな不調に終わって年を経ていく。その間に、ちょっと不良っぽい妙子がひき起こす奔放な恋愛事件がある。世相は日中戦争など険しいなか、貞之助一家は、音楽会・舞の会・芝居・料理屋・春の花見・夏の蛍狩り・秋の月見と明るく華やかな生活を享楽する。昭和16年、35歳になってもなお若く美しい雪子が、華族出身の御牧(みまき)という男との縁談がまとまり、上京するところで物語は終わる(東京紅団『谷崎潤一郎「細雪」を歩く 大阪編』より)。写真は渡辺橋と大阪朝日ビル(昭和6年竣工)。この最上階に「アラスカ」があった(今もあります)。ビルは数年内に取り壊し予定。

どこが「かいわい」やねん!のツッコミが来そうです。先に言い訳をしておくと、歴史上(中世)の「渡辺橋」は、現在の場所ではなく、天神橋と天橋橋の間あたりに架かっていたという説が有力(仁木宏)です。十四世紀はじめの『夫木抄』には権僧正公朝が詠んだ次の歌が採られています。渡辺や橋の上方を始にて多かる岸のつま社かな。橋の上方とは楼の岸あたり(=かいわい)を指し、浄土堂があったとされています。十六世紀になると、このあたり一帯は「上手堂(じょうずどう)」という地名で呼ばれるようになります。

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