42
1078 days ago
天平宝字三年(760)十二月十九日:高麗(渤海)使(渤海使05)の高南申と、わが国の使の判官内蔵忌寸全成らが難波江口に到着した(続日本紀)。
さて、難波江口はどこにあったのでしょうか?この江口の位置は、難波津の位置論争にも影響する、例によって一筋縄ではいかないようです。上記以外で「江口」がみえる文献資料は
1)唐の使人裴世清らのために、新しい館を難波の高麗館の近くに造った。客たちは難波津に泊まった。この日飾船で客人を江口に迎え新館に入れた(608年)。
2)唐の使者高表仁らが難波津に泊まった。大伴馬養を遣わして江口に迎えさせた(632年)。
3)遣唐使用船が難波江口の早瀬に乗り上げた(762年)。
などが挙げられます。
難波津の位置については、大きくは「御堂筋三津寺付近 」(千田稔)とする説と「高麗橋(天神橋南付近)」(日下雅義)とする説の二つが有力です。千田説は、上記1)2)から「難波津→江口→新館」のコースを想定したようですが、日下説では「 難波津に泊まったのは全体の話」として、コースは「江口→新館(=難波津の側)」を想定しています。いずれにしても「江口」は「堀江」の河口です。千田説では、堀江に入る前に難波津があったと読んでいますが、日下説では、難波津は堀江の中にあることになります。大阪歴博の寺井学芸員は、やはり難波津を堀江の中と見て、「後世の渡辺津(八軒家)付近」に求めています。写真は、「古代の大阪市北部の復元図」(寺井誠「古代難波の都市造営」『葦火』113号)※神奈備より転載。

0 Comments
Realtime comments disabled